坐禅には、独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)という言葉があります。
これは、直訳すると「我ひとり、壮大な頂に座っている」という意味ですが、
実際のところは、対立のない悟りの境涯のことを言った言葉です。
瞑想も坐禅もそこまでぶち抜きますと、
自分も他人も境目がなくなり、
いいも悪いもすべて境目が溶け出していきます。
しかし、私たち凡人はなかなかそんな境涯には至れません。
だから、どうしたって、是非善悪のラベル付けにやっきになって、
毎日頭を悩ませているわけです。
その中で特に顕著な問題が人間関係ですね。
これはもう、死ぬまで付きまとう問題です。
社会のほとんどの問題は、
この人間関係からもたらされるといっても過言ではありません。
うつ、神経症、自殺、ハラスメント、ストレス、
そういった一切のことが人間関係からもたらされるわけです。
そこで、心ある人は、
こんな世の中を乗り越えるために、
自分がもっと成長しなければならないと努力します。
瞑想に興味をもって取り組まれる方なんて、
まさにそういった向上心をもった尊敬すべき人たちです。
しかし、そういう誠実な人たちだからこそ、
理不尽な社会や人に振り回されて、
苦しんでいる方も多いように思います。
なにか、そんな世の中をうまく乗り越えられる自分になる、
とっておきの方法はないものでしょうか。
あります。
一つは、戦場など、本当に命のぎりぎりの世界に飛び込んで、
生きて帰ってくることです。
そうすると、世の中のたいていのことは大したことなくなってしまいます。
また、そういう経験はオーラとなり、
対人関係で常に上に立つことができるようになります。
もう一つは、ただひたすら何年、何十年と坐禅を組み、
精神的にぶち抜くことです。
そうすると、世の中の理不尽に一切振り回されることがなくなります。
もちろん、上記二つは本当に理想ですが、
現実的でないことくらいわかります。
そこで、私たちが、最も簡単に、
自分の信念を貫き、それでいて人に認められ、
幸せに生きられる方法を最後に紹介します。
それは、価値観のあうコミュニティーに参加することです。
あなたがどれほど誠実であり、
あなたがどれほど正論を述べていたとしても、
社会には必ずあなたを批判する人が一定数います。
釈迦もキリストもソクラテスも、
みんな生前にはひどい迫害を受けています。
それは避けて通れない道です。
私たちが、対人関係において本当に幸せになろうと思ったら、
批判してくる人、対立する人をなくすのではなく、
受け入れてくれる人、支援してくれる人を増やすのです。
そのためには、自分の価値観とあうコミュニティに属するのが一番です。
宗教が強大な力で人をひきつけるのは、
そこに行けば自分のことを受け入れてくれて、
支えてくれるからです。
だから、特に社会的に弱い人、
心の弱った人が宗教に関わりやすいのです。
そして、その居心地の良さから脱退する人が少ないのです。
私が言うコミュニティーとは、
宗教のことではありません。
もっと簡単なものです。
ただ、素直に意見を言えて、
それを受け入れてくれる、
そんな場所であればどんなものでも構いません。
例えば、趣味のサークル、ネット上での集まり、
なにかの教室、飲み会仲間、合コン仲間などなど。
そらいろ瞑想ラボのようなものも一つのコミュニティになりますね。
また、コミュニティといっても、
人数は関係ありません。
自分と価値観があい、
居心地の良い場所であれば、
それがコミュニティとして機能します。
例えば、全般的に信頼のおける彼氏や彼女
なんていうのも一つのコミュニティになりえます。
ただ、恋人の場合は、そこにすべて寄りかかると、
別れた時の衝撃と失うものがでかいので、
注意をしなければなりません。
もし、あなたが、
人間関係に悩んでいるとしたなら、
それは、
あなたが悪いのではありません。
ただ、自分の居場所をまだ見つけられていないだけです。
後記
もし、今のコミュニティが、
仕事など利害関係を共にするものに属しているとしたら
ちょっと気をつけてください。
例えば、定年を迎えた人が急に老け込んでしまうなんて言う話を聞きますが、
特定の利害関係によって集まるコミュニティは、
その利害関係が解消されると、
その関係が終わってしまうことがあります。
今、自分が属しているコミュニティは、
会社をやめても、引っ越しをしても、
属していられるものだろうか、
そういう基準で見返してみてください。
利害関係を共にするコミュニティももちろん悪くありませんが、
並行して、ただ価値観だけを共にするコミュニティを探し求めることを、
今のうちから始めておくといいですね。
喉が渇いてから井戸を掘ったのでは間に合いませんからね。
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