例え誤解であっても、言い訳などせぬ人格を身につける

例え、誤解からどれだけの不利益を被ることになろうとも、言い訳などせずにいられるだけの器を作るのです。

白隠禅師という有名なお坊さんにはこんなエピソードがあります。

ある時、白隠禅師の村の娘が結婚もせずに妊娠を隠して出産しました。生まれたからにはもう隠し通せるわけもなく、娘の両親にもそのことがバレてしまいます。時代は今と違うので、赤子の父親は誰だと、娘の父親が大激怒します。正直に言ったら彼氏が大変なことになると思った娘は、白隠禅師だと嘘をつきます。

日頃から立派に見える白隠禅師がそのようなことをしていたとあって、父親を始め、村中の人は大激怒して、赤子を持って白隠禅師のもとに詰め寄ります。そして罵詈雑言を浴びせて、赤子を押し付けて帰ってしまいます。

何のことかもわからない白隠禅師でしたが、そんなことも気に留めず、その日から渡された赤子の世話を始めます。なにも言わずに赤子を受け取り世話をしているものだから、世間の人達は、赤子の父親は本当に白隠禅師なのだと思い、町中の人々が落胆や非難といった反応をします。

それでも白隠禅師は意に介せず、赤子の世話を続けます。

それからしばらくたって、娘は自分のウソに耐えきれなくなり、父親に本当のことを話します。それを聞いた父親は偉いことをしてしまったと、すぐに村中の人達を集めて白隠禅師の元に謝罪に行きます。それを聞いた白隠禅師は、「そうかそうか」といって、なにごともなく赤子を返したと言います。

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こんな大きな出来事であっても
そうかそうかで受け止めてしまう
白隠禅師の器の大きさに
私たちは学ぶところがあります。

瞑想を学ぶということは
この人生の大安心を掴むということです。

それは、例え冤罪になって明日に死のうとも
「そうかそうか」と言って
受け入れられるほどの器を
身につけるということなのです。

裁判で白黒付くような
どっちが得だという話に
この人生の大安心はないんです。

それは例え、
この命がかかっていようともです。

命は尊い。しかしそれ以上に
不変の魂を鍛え上げることにこそ
本当の人間の価値があるのです。

命というのはなにも、
この肉体のことばかりではありません。

やがて老いて死に消滅してく
この身体への執着で
いつまでも
心が揺さぶられるようではいけません。

私たちのは瞑想を通して
この人生の大安心を目指していくんです。

それが
人間が人間たる道なのですから。

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