丁寧に見える人ほど怒りに満ちている
怒りは自分を変えるときの最大の敵です。
私たちの経験上、内側が怒りに満ちている人ほど、一見すると丁寧に見えて、そして、自分自身は怒りに満ちているとは気づいていません。
その理由は、「自分はいつも正義なのだ」という思いが心の奥底にあるのです。
これは直接当人にそういっても否定するでしょう。
しかし、言動を見ていれば明らかです。
例えば、
「私はこんなに丁寧に話しているのに相手は礼儀知らずだ」
「私のことを知りもしないくせにあの人は決めつけている」
「私がこんなにやったのに、お礼すらない」
「あの人の発言は私を馬鹿にしている」
「私はしっかりやっているのに、なんでそんなこと言われなければならないのか」
など、「自分自身がこうしているのに、あの人はああだ」というように、
自分が丁寧にやっているということが、やっていない人に対しての批判材料になってしまっているのです。
これは、言葉でどれだけ自分の正当性を主張しても、「怒り」の感情に支配されているという事実がある以上 「自分はいつも正義なのだ」 という思いを否定しえません。
梅宮アンナさんの「ウォッシャー液」発言
つい最近、タレントの梅宮アンナさんが車のウォッシャー液を走行中に使用することに対して発言した内容が炎上していました。
走行中に前の車がウォッシャー液を使用してフロントガラスを洗浄し、その飛沫が後ろにいた梅宮さんの車に飛んできたようです。それを受けて梅宮さんは、
「絶対にやっては、イケナイ行為なんだけど」
「自分さえ良ければいいって人が目立つな。。最近は。。相手を思いやれない人。本当に嫌です。プンプン丸でした」
という発言をしました。
これに対して、世論は、ウォッシャー液は走行の安全確保に用いるもので、走行中に使用するのは当然である、車が汚れるのが嫌なら外を走らせるな、というような意見が多数を占めていました。
ここではウォッシャー液使用の是非はさておきます。
問題は、
「絶対にやてはいけない行為」であると間違った断定をしていることと、その間違った断定を前提に、それらをする人が「相手を思いやれない人」であると決めつけてしまったところにあるでしょう。
もし、梅宮さんの最初のツイートが、「前の人が走行中にウォッシャー液を使って、それが自車にかかり車体が汚れました」という事実を話す内容のものだったら炎上はしなかったでしょう。
そして、炎上を受けた梅宮さんの発言で、
「一昨日、この話をしたら、攻撃してきた人がいた 違反じゃないから問題ないと 怒る方がおかしいと 車間距離が有れば飛沫なんてかかんないとか、車間距離を取らないお前が悪いとか」
「視界優先だから、安全第一なんだから、走行中に、フロントガラスが汚れたら、ウォッシャー液は、周り関係なく当たり前の行為だ!!と、わたし。。怒られる始末に」
「読んでいて、なんだか悲しくなるモノが多かった 他人に思いやる気持ちより、自分の心配。。自己中心的。傍若無人な人。目立った」
というように、自分の発言のなにが悪かったのかに一切気づいておらず、自分が責められたことに対してさらに気分を害していることを主張するだけの発言になっていることもまた拍車をかけているのでしょう。
もし、他人を思いやる気持ちを梅宮さんが実践してるのなら、「ウォッシャー液を使った前の車」が視界不良で事故を起こさなかったことを喜んでも良いのではないかと思います。
自分の丁寧さが相手を評価する基準となったら人は間違う
もちろん、ここでは梅宮アンナさんを批判する気もなければウォッシャー液の使用の方法を考えるつもりもありません。ただ、丁寧な人ほど、それを怒りの材料に変える傾向があるということを知っていただきたいのです。
梅宮さんの事例を挙げると、「絶対にやってはいけない行為」というのは世間的なことではなく、あくまで主観的なことでした。そして、その自分自身の判断基準をもって、他人を評価し、それに合わない人に向けて怒りをあらわにします。そして、その意見に反論する人に対してさらに不快感を示しています。
自分自身が心掛けていることや、そうであるべきと思い込んでいることが、他人を評価する材料になったら、人は間違った方向に進んでいきます。
一見すると丁寧で社会的な評価も高いような人ほどそういう傾向は強く出ます。
自分自身がそうあるべきと思うのなら、自分自身がそうしていると主張すればよいだけです。自分自身の「そうあるべき」を他人を評価する材料(「それをやらない人は思いやりがない」など)に使うのなら、それは間違った方向へ進んでいきます。
人に罪悪感を持たせることはできない
人は人に罪悪感を持たせることはできない
これは、「人を動かす」という著書で有名なデール・カーネギーの本の中に書いてあった言葉だったと思いますが、この言葉を始めて聞いた時、けっこう衝撃を受けました。
もちろん、この言葉を読んだだけではなく、前後の文脈があってこその理解なのですが、
私たちは、誰かと対立して自分が正しくて相手が間違っていると思うと、
自分の主張を認めさせようと怒りを露わにします。
そのような時は、相手に非を認めさせようと躍起になります。
子供との喧嘩もそうです。
親と喧嘩した時もそうです。
夫婦で喧嘩した時もそうです。
友だち同士で喧嘩した時もそうです。
車で事故を起こした時もそうです。
仕事で失敗した時もそうです。
恋人の浮気を見つけた時もそうです。
そんな時は、よくよくその時の自分の気持ちを考えてみると、
相手に非を認めさせたい、
相手に悪かったと謝らせたい、
という思いが強くあることに気づきます。
それはつまり、相手に罪悪感を起こさせようという試みに他なりません。
しかしカーネギーは、そんなことはできないと言います。
※※※
今回の梅宮さんの問題は明らかです。
自分の車が汚れて嬉しい人は誰もいません。
前から予期せぬ液体が飛んできて、
自分の車に付着したと思えば良い気分はしないでしょう。
そんなことは誰もが同意することです。
(もちろん、気にしない人も中にはいると思いますが、それで嫌な気分になる人がいるということは誰でもが容易に同意できることでしょう)
今回の梅宮さんの非というものがあるとすれば、
(いや、それすらも本来非ではなく、個人の主張であるのですが)
勝手な価値観を作って、一般的な善良な人を「思いやりがない」と断定したことにあると言えます。
そうであるならば、本来は、素直に非を認め、
「絶対にやってはいけない行為」ではなく、
「自分自身が個人的に嫌な行為」であったと訂正し、
間違った見解だったと認めればそれで済む話です。
しかし、そうはせず、攻撃してくる相手の非を挙げて、
自分を責めてくるいかにひどい人が多いかという主張をし、
そのことによって、自分の非から目をそらしています。
この例をみてもわかる通り、私たちは人を責めることによって、
相手に罪悪感を持たせることなどできないのです。
もちろん中には、素直に自分の非を認められる人格の優れた人もいるでしょう。
しかしそれは、例外的なごく一部です。
多くの人は、非難されれば、
自分の非を検討するよりも先に、
相手の非を探し始め、攻撃を開始します。
もし、明らかに自分の分が悪いと思えば、
最後には、その相手を嫌いになるという手段をもって、
徹底的に抵抗します。
このように、相手を責めて得られるものは、
私たちが望むように相手に罪悪感を持たせられることではなく、
相手からの攻撃か、自分に対する嫌悪しかありません。
だから、口論の末には、
行為ではなく人格を否定し始めるのです。
第一印象の良い人ほど深い関係になる時は気を付ける
第一印象の良い人、丁寧な人ほど、深く付き合う時にはよくよく考えた方が良い場合があります。
もちろん、第一印象のまま良い人というのは沢山いるのですが、その中には一部、怒りに満ちた人がまぎれているのも確かです。
そして、そういう人は概ねこのような言葉を使います。
「こんなに馬鹿にされたのは初めてだ」
「こんなに失礼な人は初めてだ」
「こんなに怒ったのは初めてだ」
「こんな侮辱をされたのは初めてだ」
「こんなことはあり得ない」
「絶対にあってはいけないことだ」
「こんなに馬鹿な人は初めて見た」
などです。
実際には多分、日ごろからことあるごとに同じようなことを言っているのだと思います。ただ、相手がいかにひどいのかを強調して、相手の非を責めたいがためにそのような発言をしがちになります。
相手の丁寧さは、自分に向けられたハードルでもある
「丁寧な人には気を付ける」、これは初めて会って、そこから関係を深めていかなければならない様々な対人関係に言えます。
仕事の営業先でも、
友人関係でも、
お客さんでも、
店員さんでも、
サークルの仲間でも、
どんな出会いの場面でもそうです。
相手の丁寧さは、あなたがやらないことに対しての評価基準となり得ることを覚えておいてください。
※しかもその評価はごく主観的な身勝手なものです。
そして、その時には、あなたがその人に向けた期待は裏切られるはずです。
そうはいっても第一印象の良い人は良い
ただ、そうはいっても、やはり第一印象の良い人は良い人である可能性の方が高いということも忘れないでください。
今回のお話は人生経験を積んだ人にしかわからない高度な「人を見る」スキルです。ですので、基本的に第一印象が良い人に好意を持つことは間違っていません。
ただし、第一印象の良し悪しでその人を決めつけないということはとても大事になります。この点についてはまたいずれ書いていきたいと思います。
最後に~私たち自身が目指す所~
ここで取り上げたことは、人や物事を批難するためでは当然ありません。
私たち(私たち自身と、これを読んでいる瞑想を日々学ぶ仲間のみなさん)は、社会の様々な出来事を省みて、自分自身の在り方を振り返るためにこうして考えを巡らせています。
ですので、今回の記事の本質も、周りの人たちがどうであるかということではなく、それらを踏まえて自分自身がどのように振る舞っていくべきかを考えていくことが一番の目的になります。
今回の話しの中から学ぶべきことは、
・自分自身の信じることを他人に押し付けるべきではないこと
・自分がやっていることを他人がやらないことの批判材料にしないこと
(自分がやっているのに、相手がやっていないという憤慨は、そもそも自分が自分自身のために行っていることではなく、我慢してそうしているのだという思いがあるからこそ起こるものだということを知る)
・自分自身が自分の正しさを知っていればそれで十分だと心から理解し実践できること
・怒りというのは何であれ、自分を理解してもらいたいとの心の叫びなのだと知ること
などです。
そのようなことを学び、実践できるように心がけていくことが瞑想を学ぶものにとっては必要なことです。
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