ネットのニュースを見ていると、
たくさんの意見が対立していて、
ついつい自分も
参戦してみたくなってしまう
ときがあります。
マナーを守って議論するのであれば、
それはとても素晴らしいことだと思います。
もちろん、
現実の生活においても同じことです。
だけど、ネット上、
現実の生活のどちらにしても、
必ずしも良い議論ができる人ばかりでは
ありませんね。
私は27歳の時に、
「議論することをもう辞めよう」
と思いました。
厳密にいうと、
議論をやめたのではなく、
議論をしない
「相手」と「状況」を決めたんです。
それは今回お話しする
人と意見が食い違う、
話が合わない原因に気づいたからです。
人と意見が食い違う、話が合わない原因
人と意見が食い違う、
話が合わない原因は
いくつもあると思いますが、
私が考える大きな要素は下記の2つです。
①ゴールが違う
②言葉の定義が違う
ゴールが違うことについて
「ゴールが違う」というのは、
その話の議論の目的が
違うということです。
例えば、
「カップルは愛してると毎日伝えるべきか?」
というテーマがあったとします。
そこに、「伝えるべき」という女性と
「伝える必要はない」と
考える男性がいたとします。
この議論はたぶん、
どこまで行っても平行線です。
なぜなら、
女性にとってそのテーマのゴールは、
「自分が愛されていることを自覚させてほしい」
ということであり、
男性にとっては
「愛していると言葉に出すことが
本当に愛していることとイコールなのか」
という論理的な解答であり、
両者の求める目的地は違うものだからです。
そのほかにもたくさんあります。
立場の違いといわれるものの多くも、
本質的には議論の目的地の違いです。
例えば、経営者と労働者の間の議論では、
経営者にとってのゴールは「会社のため」であり、
労働者にとってのゴールは
「生活のため」であるから
しばしば対立が起こります。
みんなが「会社のため」とい
うゴールに向かって議論をしていれば、
対立は起こりません※1。
例えば、ちょっと前のニュースで、
アイドルがタクシー運転手に
ため口で話されたといって、
それを「私は客だ」とTwitterにアップしたら
炎上したというものがありました。
このように賛否両論あるニュースというのは、
ゴールの違いです。
まずは賛否の否の意見ですが、
「『私は客だ』という発言をするおまえは何様だ」
というものがあります。
このような意見の後ろには、
「自分をないがしろにされたくない」
という発言者の本音があります。
その人はたぶん、
客を相手にする側の人ですね。
接客の側は、なるべく面倒な客を減らし、
自分の労働環境、
立場を良くしたいというのが
正直なところでしょう。
そんな本音が隠れています。
一方賛成意見、
「失礼な運転手っていますよね、頭に来ます」
というようなものです。
これのゴールは、
いや、これのゴールも結局
「自分をないがしろにされたくない」
ということなんです。
つまり、相反する立場であり、
利益の相反する人たちが互いに
自分の立場、自尊心を守ろうとしている
闘いなんです。
ゴールが違うというのは、
サッカーやバスケットボールのように、
お互いの立場からお互いのゴールを狙って
シュートを決めるような状態のことです。
だからいつになって
も対立はなくならないんですよね。
ゴールが違うというのはそういうことです。
それぞれの立場から、
狙うゴールが違うということです。
結局、議論の本質的な部分では一緒なんです。
みんな自分の立場を守るのに必死だということです。
たったそれだけのことです。
だから私は議論するのをやめたんです。
だって、例えば、
「自分が愛されていることを自覚させてほしい」
という彼女と、
「カップルは愛してると毎日伝えるべきか?」
という議論をして、
合理的な答えを導いたところで
しょうがないですよね。
そんな不毛な議論よりは、
相手が求めるなら可能な限り
答えてあげればいいんじゃないか、
そう思うわけです。
これは一つの例えです。
言葉の定義が違うことについて
言葉の定義が違うというのは、
そのままの意味なのですが、
言葉の定義が人それぞれ
かなり違うことに気づいている人は少ないです。
例えば、さっきの流れですが、
「客」という言葉があります。
さっき、取り上げた否定的な意見の人
「『私は客だ』という発言をするおまえは何様だ」
という人は、「客」の意味に
「客=客はえらくない」という
定義づけがあると考えられます。
そのため、
「お前は何様だ=客はえらいわけじゃない」
という発言をしたわけです。
反対に、
「失礼な運転手っていますよね、頭に来ます」
という人の「客」に対する定義は
「客は友達ではない」ということです。
こういうちょっとした
言葉の定義の違いで
議論が成り立たないことがよくあります。
議論をする前に考えること
では、良い議論をするために
はどうすればよいのでしょうか。
それはまず、
相手の立場を考えて、
相手がその議論において
なにを得たいのかを考えることです。
相手が得たいのがただ理解や同情や
共感であれば議論は避けた方が賢明です。
建設的な議論はできません。
また、ただ言い負けるのがいやだ
という人もいますので、
そういう人との議論は絶対避けるべきです。
そのようにしてまずは、
相手と自分のゴールを同じにすることです。
同じにできなければ少なくとも、
相手のゴールを理解してあげることです。
それができないといつになっても
建設的な議論はできません。
そして、議論の中に出てきた言葉に対して、
相手がどういう意味でその言葉を
使っているのか疑ってみることです。
さっきのように「客=客はえらくない」
というのと
「客=友達ではない」というように、
実はちょっとした定義の違いに
気づくだけで、
議論が上手く進むこともあります。
「客はえらくもないし、友達でもない」
というようにお互いの認識を改めれば、
炎上したアイドルの発言に対しても、
「えらいわけでもない客が『私は客だ』と発言したということは、つまり、なれなれしい運転手に対して『私はあなたの友達ではない』と言いたかったのだろう」
という理解ができます。
そこにはもはや、
何様だというような議論はなりたちません。
※1「対立は起こりません」と書いていますが、ゴールを同じにしたとしても当然対立は起こります。しかしそれは手段に対しての対立であり、議論の目的に対する対立ではありません。手段の対立というのは学問的な対立であり、その答えは検証することによってしか得られません。ただ、そういう対立はとても必要な対立です。
最後に 私が議論を辞めた理由
冒頭でちょっと書きましたが、
私は27歳の時に
「もう議論はしないぞ」と決めました。
ただそれは一つの意味での議論です。
それは「自分の自尊心を守るためだけの議論はしない」
ということです。
言い負けて悔しい思いをすることや、
上手く言葉にできずに
悔しい思いをしたことがある
という人もいると思います。
私にもそういう経験がたくさんあります。
だからこそ、訓練を重ねて、
人よりちょっと議論に強くなれたかもしれません。
だけど、議論に勝って得られるものは、
自尊心を満足させる以外にありませんでした。
正論で勝てば友達は減ります。
多くの人は正論や合理性なんて求めていません。
みんなただ、自分を認めてもらいたいだけ、
共感をしてもらいたいだけなんです。
社会では、議論ができる能力は強力な武器になります。
だから、向ける相手を間違えれば
その相手との人間関係を壊してしまいます。
社会で闘うための武器を持つこと
は素晴らしいことですが、
その武器を向ける前に、
相手に対する理解の手を
差し向けてあげる方がよっぽど良い場合があります。
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