前回の記事で維摩経というお経について触れましたが、
今回はそのお経の中から「瞑想」に関する記述を紹介したいと思います。
瞑想というのはそうやるものではない
前回の記事で、維摩経の中では僧侶たちが維摩居士にやり込められたということを書きましたが、維摩居士にやり込められた僧侶たちの中には、釈迦の十大弟子といった力のある人たちもいました。
般若心経の一節に「舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色」とありますが、この「舎利子」というのは「シャーリプトラ」というお釈迦様の十大弟子の一人です。
般若心経はこの舎利子が利き手となって語られる物語です。
その舎利子が維摩居士に瞑想についての自分の考えを述べます。
「瞑想とは俗世間の中で、身と心を現さないことです」
維摩居士は答えます
シャーリプトラよ、瞑想というのはそうやるものではない。
現実の世界に身も心も現わさないのが瞑想だ。
心身を滅却した境地にとどまったまま、しかも、立派な動作を見せるのが瞑想だ。高い宗教的境地から離れず、しかも凡人の生活をするのが瞑想だ。
心を内面にも止めず、下界の事物に向かっても動かさないようにするのが瞑想だ。
どんな思想傾向にも迷わされず、仏道の修業をするのが瞑想だ。
輪廻の世界の迷いを断ち切らず、そのまま理想の彼岸に入るのが瞑想だ。
仏陀が「瞑想」といわれるのはまさにこのことである。
ここには本当に多くの学びがあります。
私たちは瞑想というものをなにか神秘的な技法のように思い、瞑想をすれば神秘的な世界と繋がったり集団意識とアクセスできたり、チャクラが開花したり、クンダリーニが上昇したり、ハイヤーセルフと繋がったりといったまやかしにばかり捕らわれてしまいます。
また、宗教的な生活や特別な生き方が必要だという風に考えがちになってしまいます。
しかし、維摩居士は言います。
瞑想というのは、私たち凡人の当たり前の生活の中で、立派な生活態度を示すことなのだと。
だから、私たちが瞑想を学ぼうと思ったらまずは、礼儀を持つ、感謝をする、時間や約束を守るなど、そういう私たちの生活の当たり前のことを正さなければなりません。
本物の瞑想を学び続けていっていただきたいと思います。
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